妻が消えた夜、犬たちの静寂がすべてを語り、
 6月の月明かりが嘘を暴いた

プロローグ

夜の果て、影は幾重にも折り重なり、
魍魎の息吹は地を這い、星の光すら喰らい尽くす。

足音は遠ざかる
声は霧に呑まれる
歩めども歩めども、彼方なるは幽かなる灯

月は哭く
風は途絶える
沈む身は、果てなき修羅の底に彷徨うのみ

されど、見よ
見開かれし眼の先に
呼び交わす影、虚を裂く一筋の光

それは何処へ向かう
それは誰を呼ぶ

遠き日に交わした誓約は、今いずこへ
あの夜、見送った背は
あの朝、見失った影は
還るべき場所を知っているのか

名を呼べ
その名は消えゆく運命か
その名は今も、記憶の涯に残るか

迷い犬よ、導け
影に沈む魂を、ただひとつの場所へ

第一章 喪われしものの夜

第一節 玄関の靴は何足あったか

光が揺れていた。
消えては浮かび、浮かんではまた溶ける。その瞬間の連なりが続いているのか、ただ一つの瞬間が繰り返されているのかはわからない。

ただ、それが始まったのか終わったのか、その境目はどこにもなかった。

漂う感覚があった。浮かんでいるとも、沈んでいるとも言えない。周囲にあるのは広がりだけで、どこかへ向かって進んでいるような気配もない。ただ、時折、遠くの光が微かに震える。それが何を意味しているのかを知る術はないが、その振動がこの空間の奥深くから響いていることだけは確かだった

その揺らぎの中に、動きが見えた。

細い影が跳ねている。小さな四肢が瞬間ごとに形を変え、次の瞬間には闇に紛れる。それは犬だった。

私はそう思ったが、なぜそう思ったのかはわからない。ただ、その姿がどこか懐かしく、同時に胸を締めつけるような感覚を呼び起こした。

犬は走り回り、時折立ち止まる。その動きは規則的ではない。時に跳び、振り返り、また走り去る。そのすべてが、一瞬の出来事に見えるのに、どれほどの時間が流れたのかは分からない。

振り返ることもできず、ただ、その動きが織りなす影に引き込まれていった。

影の向こうに、光が集まり始めた。それは青く、優しい光だった。揺らぎの中で徐々に形を持ちはじめるその光景は、どこか鼓動のようなリズムを感じさせた。

青と緑、そして白が絡み合い、模様を描く。その模様は、じっと見つめるほどに複雑さを増し、何かの輪郭を成そうとしていた。

やがて、その輪郭が街の形を浮かび上がらせた。遠くで小さな家々が並び、道が交わる。その中の一つに目が止まる。小さな建物だ。どこか懐かしいが、それが何なのか思い出せない。ただ、その玄関先に視線が吸い寄せられていく。

玄関には靴が並んでいる。その数は不思議だった。奇妙に多いような、逆に少ないような違和感がある。その傍らには、何かが座っているはずの場所がぽっかりと空いていた。

犬。そこにあるべき何かが、消えている。その空白がなぜか胸に重くのしかかる。

第二章 十年前の記憶

第一節 夜の予感

「ねえ、雄介、聞こえてる?」

妻・留美の声が、遠くから響いた。現実のものではない。どこか夢のような響きを持った声だった。

「おい、留美!」雄介は叫ぶ。しかし、声は空間に吸い込まれ、返事はない。

意識がゆっくりと遡る。気づけば、そこは十年前の夜だった。

その夜、雄介は雨の中を歩いていた。傘は持っていなかった。帰るべき家のドアを開けると、薄暗いリビングの奥に人影があった。

「……遅かったわね。」

ソファに座る妻の隣には、見知らぬ男がいた。黒いスーツ、鋭い眼光。どこか冷たい雰囲気を持っていた。

「紹介するわ、鷲尾さん。」

留美は静かに言った。

鷲尾はゆっくりと立ち上がり、無表情のまま雄介を見た。

「真田さん、初めまして。」
低く抑えた声だった。

雄介は直感的に警戒心を抱いた。なぜ妻はこんな男を家に招いているのか。
なぜ、こんなに遅い時間に。

「……どちら様でしょう?」

「君とは初対面だが、お前のことはよく知っているよ。」
鷲尾はゆっくりと微笑んだ。

「どういう意味だ?」

「十年前、お前はあの夜、何を選んだ?」

雄介は息を呑んだ。

第二節 月の影、沈む犬

鷲尾が差し出したのは、一枚の写真だった。

それは見覚えのある公園。
そして、その中に小さく映る一匹の犬。

「……これが、何だ?」

「思い出せ。あの夜、お前はここにいた。」

写真の中の犬は、十年前に失った犬と同じ姿をしていた。

「まさか……そんなはずはない……」

その瞬間、光が弾けるように弧を描き、雄介の意識は、再びあの夜へと引きずり戻された。

第三章 沈黙の証人

第一節 濡れた舗道

雨の音が遠くで響いていた。

光のない夜。空は低く、雲に覆われ、月すら見えない。水たまりに落ちる雨粒が、不規則な波紋を広げる。

雄介はじっと写真を見つめていた。指先がかすかに震えている。

「……この犬は死んだはずだ」

十年前の記憶が蘇る。

あの夜、公園のベンチに座っていた。濡れたコートの裾が冷たく、靴の中にまで雨が染み込んでいた。

膝元には、一匹の犬がいた。

暗がりの中で、黒い毛並みがぼんやりと光を反射していた。疲れた様子で伏せていたが、雄介が動くたびに耳をぴくりと動かした。

その犬の目は、言葉の代わりに何かを伝えようとしていた。

――お前は、どうする?

あのとき、何を決めたのか。

思い出そうとすると、頭の奥がズキズキと痛んだ。

「お前はここにいた」

鷲尾の声が冷たく響いた。

「そして、お前は何かを選んだ」

雄介は拳を握った。

「だが、俺には何も覚えがない」

鷲尾は微笑を深めた。

「……なら、思い出させてやろう」

次の瞬間、視界が暗転した。

第二節 記憶の扉

目を開けると、見覚えのない場所にいた。

壁も天井もない。ただ無数の光が浮かんでいる。まるで空間そのものが光でできているかのようだった。

遠くに人影が見えた。

こちらに背を向けて立っている。

ゆっくりと近づくと、その影が動いた。

「お前は……」

振り向いたその顔を見た瞬間、雄介の全身が凍りついた。

そこにいたのは、十年前の自分だった。

コートの襟を立て、濡れた髪が額に貼りついている。疲れた目をしていた。

だが、その足元には――

あの犬がいた。

「俺は、ここで何をした?」

問いかけるが、十年前の自分は何も言わない。ただ、ゆっくりと膝をつき、犬の頭を撫でた。

その仕草が、あまりにも優しかった。

「お前は――」

その瞬間、記憶の扉が開いた。

風が吹いた。光が砕けるように飛び散り、音のない叫びが雄介の中に響いた。

そして、目の前の景色が、一瞬で消えた。

第三節 消えた街

気がつくと、見知らぬ場所に立っていた。

アスファルトの舗道。街灯がぼんやりと光を投げかけている。だが、建物の窓はどこも暗い。

まるで誰も住んでいない街のようだった。

足元に水たまりが広がっている。

その中に、靴が一足だけ浮かんでいた。

見覚えのある靴だった。

「……これは」

息を呑んだ瞬間、遠くで鈴の音が響いた。

背後に気配を感じた。

振り向くと、そこに一匹の犬がいた。

黒い毛並み。濡れた舗道に影を落とし、じっとこちらを見つめていた。

その目は、何かを知っている。

そして、雄介は悟った。

――ここは、現実ではない。

犬はゆっくりと歩き出した。

その歩みに導かれるように、雄介も足を踏み出した。

すべての答えが、その先にある気がした。

 第四章 沈黙の裂け目

第一節 犬の導く先へ

犬の歩みは迷いがなかった。
まるで何か確かな目的があるように、濡れた舗道を静かに進んでいく。
雄介は無意識のうちにその後を追った。

街は不気味なほど静かだった。
見覚えのあるはずの場所なのに、どこかが決定的に違っている。
店の看板は文字がかすれて読み取れず、建物の窓は黒く塗りつぶされたように闇に閉ざされている。
灯りが点いているのは、遠くに見える一軒の家だけだった。

犬は立ち止まることなく、まっすぐにその家へと向かった。
雄介の胸の奥で、得体の知れない不安が広がる。

「ここは……」

小さな声が自分の口から漏れる。

犬はふと足を止め、ゆっくりとこちらを振り返った。
濡れた毛並みが月の光を受けて鈍く光る。

「俺を……どこへ連れて行こうとしている?」

犬は何も言わない。ただ、目を細めるように見つめてきた。

雄介は知らず、拳を握っていた。
その視線の奥に、何かを感じ取ったからだ。

「……思い出せ、というのか?」

犬は再び歩き始めた。

雄介は息を呑み、重い足を引きずるように家へと向かう。
そこは、十年前に住んでいた家だった。

第二節 記憶の裂け目

玄関の扉は開いていた。

冷たい空気が流れ出し、雄介の頬を撫でた。
足元に目をやると、そこには見覚えのある靴が並んでいる。

――俺の靴だ。

それだけではない。
留美の靴もある。
見たことのない男物の革靴も。

「……!」

背筋に冷たいものが走る。
これは、十年前のあの夜と同じ光景ではないか。

その瞬間、背後で犬が低く唸った。

次の瞬間――
家の中から、鈴の音が響いた。

チリン――

その音は、かすかに揺れながら耳に残る。

雄介は、震える手で玄関のドアに触れた。
奥のリビングから、人の気配がする。

――これは幻か?
それとも、過去が現実になろうとしているのか?

ゆっくりと、一歩を踏み出す。

そこには、十年前の”自分”がいた。

ソファに座る雄介。
隣には、見知らぬ男――鷲尾。
そして、対面には静かに立つ留美。

すべてが、あの夜のままだった。

「これは……どういうことだ?」

目の前の自分は、雄介の存在に気づいていない。
いや、そもそも”ここ”にいるのは本当に自分なのか?

頭がぐらつくような錯覚に襲われた。

「……お前は、俺なのか?」

声をかけようとしたその時、犬が低く吠えた。

「!」

すると、ソファの”雄介”がゆっくりと顔を上げた。

その目は、真っ黒だった。

まるで魂のない人形のような、空虚な眼差し。

ぞわり、と全身に悪寒が走る。

「お前は……」

雄介が言葉を発するよりも早く、“もう一人の雄介”が口を開いた。

「俺は、お前の選ばなかった未来だ。」

その瞬間、世界が弾けるように揺れた。

第三節 選ばれなかった運命

眩い光が視界を覆う。
耳鳴りがする。

気がつけば、雄介は暗闇の中にいた。

音もなく、色もなく、ただ虚無だけが広がっている。

そして、遠くに光るものがあった。

それは、犬だった。

ゆっくりと近づくと、犬の足元に何かが落ちている。

写真だった。

拾い上げてみると、そこには十年前の雄介と、犬の姿が写っていた。
しかし――

「……俺は、この犬を知らない。」

写真の裏には、日付が書かれていた。

――六月十七日。

まさに、妻が消えた日だった。

「どういうことだ……?」

犬はじっと雄介を見つめていた。

次の瞬間、遠くから鈴の音が聞こえた。

そして、光が雄介を包み込む。

意識が薄れ、目の前の景色が溶けていく。

最後に見たのは、犬の静かな瞳だった。

第五章 虚無の向こうへ――

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